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映像のソリストから
8ミリには、映画のすべてとそれ以上のものが詰まっている。
カメラとビュワーとスプライサーと映写機をそろえれば、個人でも映画の定型表現のすべてが手に入る。そして、個人でもらくらくと操作できる8ミリは、定型表現を解体する方向に向かう。カメラはさほど高価な機種でなくともコマ数が変えられコマ撮りもできる。映写機も上映中に映写スピードを変えられる。スクリーン以外のものに映写することもできる。ふすまに、窓ガラスに、天井に、床に、窓から庭の地面に、隣の家の壁に。スクリーンとなったもの質感と映像の質感が交じり合いぶつかり合い映像は触覚を喚起し始める。映像が写ることで空間が一変する。こういった体験を可能にするのは身近にある8ミリ映写機だった。
1秒24コマ、上映時間は70分から3時間など、映画産業というシステムによって作られ管理されてきた映画の定型表現。8ミリはそこから踏み出す機能をそなえている。定型が生まれる以前の映画の在り処へ私たちを引き戻す。リュミエールへ、エジソンへ、リュミエール以前の未分化な状態へと。たとえば、エミール・レイノーの光学劇場はスピードを変えられる手回し式の映写機であり、映像をスクリーン上でライブで合成する映写機だった。8ミリにはこうした映画前史からの記憶が詰まっている。

私には原映画体験と呼べるものが三つある。
ひとつは、友人がカナダで買ってきた人体写真集の中に、網膜に映った少女像を発見したこと。もうひとつは、御茶ノ水駅のプラットホームで、目の前に見える聖橋のアーチ型の橋げたの裏側に、眼下の神田川の水面に反射した太陽の光がゆらゆらゆれる水の波紋の映画を映し出していたこと。三つめは、あるワークショップに参加したときのことだった。場所はホテルの中庭、参加者は目隠しをして、リーダーの指示に従う。「足の感覚に集中してください」「頬で日差しを感じてください」「鳥の声を聞いてください」といったリーダーの言葉によって、地面の傾斜に意識がいき、頬に温かみを感じ、鳥の声が聞こえてくる。言葉によって一瞬にして感覚が喚起されスイッチングされる。私は、まるで映画のカットの切り替わりのようだと思った。
網膜の話はカメラが、ワークショップの話は編集が、私たちの身体や認知構造と深くかかわった起源を持ち、聖橋の話は映写機が私たちの身体を取り囲む物質的な環境の中にその起源を持っていることを示す。そして、聖橋の裏側は僕らの網膜でもある。カメラ、映写機、編集機や編集の文法は、さまざまな試行錯誤や技術的実験をへて私たちの体や意識のあり方に似たものとなった。似てはいるが全く同じではないからこそ、カメラや映写機や編集機を操作することは、私たちの体や知覚のあり方と意識や認識の発生の姿を、そして映画の発生の姿を浮かび上がらせることになる。

8ミリは、一方で集団制作によるシステムとしての映画につながるベクトルを持ち、もう一方で私たちの身体と意識と映画の交差する場へとさかのぼるベクトルを持つ。これほどの振幅をもった映像メディアはほかになく、8ミリを失うことは映像メディアが後者のベクトルを失うことを意味する。映像は意味伝達のメディアでしかなくなり、存在にかかわるメディアではなくなる。

文=黒川芳朱

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